7.Nさんの買い替え物語。
 平成になる前の年からの付き合いになる。15年間で3度の買い替えをする。

 現在68歳の未婚の男性で身寄りなく、親戚もない一人ぼっちの生活をしていた。精神に障害があると認定され、生活保護を受けながらの生活。週1回高槻市の北部にある病院に通って安定剤を支給されているが、この病院通いは30年間続いており生活リズムになくてはならない行程になっていた。薬の効き具合よりも朝早くおきてバスに乗り、決まった診察をして決まった薬を持って帰る。このことが精神の安定に影響しているようで安心感を懐いて毎日を過ごしているようにも見えた。

 15年前、平成になる前の年、昭和63年の夏、Nさんから電話を受ける。私が独立自営する前の時期にあたり、会社で留守番をしていた時だった。家を売りたいことの相談であることは想像できたが内容が良く分からないまま、二日後の訪問となった。

 異様なムードの中にNさんは座っていた。平屋造りの建築後35年になる家で畳はぶよぶよして足が吸い込まれ、真っ直ぐ歩けなくなっていた。古い畳の部屋が三ヶ所あるが、どこもゴミの入ったビニール袋と薬の入った紙袋が点在していっそう動けなくなっていた。 夏の夕方、ほのかに外は明るいが陽のあたらない立地条件、その上、電灯はつけていたが古すぎるのと汚れすぎの裸電球で本来の明るさの半分以下になっていて、見れば見るほどに異様な風景だった。

 8畳の間の座卓に近より、挨拶して話しかける。土地面積28坪。家は評価することができなくて土地価格の交渉となる。

 専用通路の面積が5坪あり、新築する場合の有効利用面積は23坪。専用通路以外には往来できない袋状の土地だったので、平均的な立地条件の土地と比較して約7割と評価する。閑静な住宅地で当時、坪当たり120万円だったところから28坪×120万円=3360万円。3360万円の7割で2352万円となることから2350万円前後の折衝になると予想した。

 Nさんは不安そうで何かを怖がっているような小さな声で必要なだけを話す。入れ歯の関係もあって聞き取りにくい。近くによって聞こうとすると後ずさりするので間隔を空けて話す事にした。

 Nさんの様子とこの場面の雰囲気からして彼に当事者としての能力、つまりこの家の持ち主に違いがないか、それに権利があっても意思を実行できるかどうかを確認するために家の書類や戸籍の関係書類を見せてもらえるよう要請する。用意周到、すぐ提示してくれた。途切れ途切れの話の段階では自分が所有者であること、契約を実行することの制限はないことを口頭で確認してはいるが仕事柄もあって証明するものがほしかった。質問をしながら書類を吟味していくとNさんの説明が正しいと理解できた。本人がNさん自身かどうかは後日、調査することとして本題に入ることにした。

 「2300万円で買います、どうでしょうか!」と私が述べると即座に「前の銀行の人と同じなので売りません!」と返事があった。その後、数秒間の沈黙があり、トイレに行くことの了解を得て数分の間をいれる。用を足して元の席に戻ると6体の位牌が入った仏壇が開かれてロウソクがともされていた。戸籍関係の書類から判断して近い関係の親戚がいないと想定した後なので、位牌を見れば一層納得することができた。しかし、異様な雰囲気だった。

 思いきって「2400万円で買います」と言えば「売ります」と大きな声で返事があり契約が成立する。会社のためには少しでも安く購入したいところだったが同業の競争会社が数社あると判断して即断、即決になった。数日後、契約書を作成して手付金を支払い、サインして押印することになり、事実上の契約締結となる。

 購入したNさん物件を即刻、新築住宅として売りに出す。一ヶ月後には4700万円で買い手がつき、会社は約700万円の粗利益を計上することになった。新築購入者からは最初に土地の代金を決済してもらい、その代金をNさんに支払うことができた。大金だったので私が同行して郵便局と銀行に分けて入金し、正確に管理できるよう協力する。

 良い流れの取引が展開されることになったが、物件購入者のため、早々に家を解体して新築を建てるのに、Nさん自身の引越先をみつけださなくてはならない。しかし、Nさんには条件があった。

 JR高槻駅から徒歩13分の清福寺町で長らく住み、週一回の病院通いが日課になっていたので その立地条件よりも優位な場所を強く求めていた。摂津富田駅に近いところで賃貸物件ではなくて購入することで物件を探すことになった。購入予算は1300万円ぐらいとした。 摂津富田駅にした理由は、病院行きの路線バスが駅前で発着していたからで、選択する条件の重要ポイントになっていた。

 他方、新築の購入者のためには間取りや色柄の相談に乗り、住宅ローンを申請しながら実行予算を組み、大工さんやそのほかの職人さんを手当てしながら夢のマイホームを実現していく。物件を売った方とそれを購入した方がスムーズにおさまるようにコーディネートするのが不動産業者と言える。

 Nさんは運良く3週間ぐらい経ったころ条件にピッタリの物件にめぐり合うことができた。高槻市西五百住町(にしよすみちょう)、購入価格1250万円、摂津富田駅徒歩8分、2階建て連棟式の二戸一住宅で3DKの間取り。Nさんは賛成して売買契約をする運びとなり、引渡しの話もスムーズに進んだ。引越しすることができれば、新築の目的で購入した人のために、古家をすぐ解体して建築にとりかかることができるので物件購入者や不動産会社(建築もしている)にとっても有益なことになる。

 身寄りがなくて、精神状態が不安定などから専門の業者にたのまずに私が引越しすることになった。若いころ、貨物運送の経験があったので、市価の7割で請け負うことにした。レンタカーを1台、私の奥さん、学生アルバイトとして息子とその友達。古い家具類が多かったが死んだ身内の心残りがあるので処分せずに引越先に運んだ。横着な扱いで壊れることがないように注意深く作業を進めた。

 古家の解体から4ヶ月して新築が完成、無事に購入者に引き渡すことができ、住宅ローンの融資金で残代金を回収することができた。新築購入者のマイホーム実現、歩合給の私への配当、会社の売り上げと利益、Nさんの買い替えの実行など関係当事者のそれぞれの思いを実現することができた。不動産業の営業マンとしてよい仕事ができたと思っている。

 最初の面談のとき、Nさんは生活資金が100万円たらずで、自宅の売却が遅ければ生活困難な状況になっていた。

 祖父母、父母、兄弟を亡くしたショックや寂しさで精神が病んでいたようで最後になくなった母親からは人に会えば騙されるので会わずに生活するよう、又、電話も使わないようにと厳命されていた。それを守り、ぎりぎりまで食物の買出しや身の回り品の買い物以外、人には会わずに生活していたようだった。

 2400万円が入金され買い替え先の購入代金に1250万円、仲介手数料・登記費用・雑費等で約100万円、計1350万円を支払うと手元に1050万円が残る勘定になる。今後の生活資金となる。軽度の精神病と認定された場合、持ち家がある限り生活扶助や住宅扶助は受けられないことになっているらしい。1050万円で何年生きて生活できるか。

 西五百住町(にしよすみちょう)に住んで一年したころ母親の遠い親戚になると言う人から借財を要求され500万円を渡したことから、あまりの緊張と不安から発作がおきて、ある場所で倒れていた。たまたま顔見知りの方がNさんの肌身にあった私の名刺をみて電話をかけてくれ、おかげで現場へ行くことができた。すでに、Nさんはある病院に搬送されて安静にしていたが意識はもうろうとしていた。お医者さんに本人の特性を説明すると身柄はすぐに任され、私の車で山手のおなじみの病院へと送った。

 一週間ほどで退院できた。親戚と名乗る人はたしかに母親存命中は数回の面識があり、Nさんは断じて親戚ではないと言っていたが遠い親類かもしれず、借りたことは認めて数年がかりで返済はした。が完済前に亡くなり、その奥さんに払ってもらうことになった。 この事があってからは朝9時に私宅へ電話することにして、気分や体調を把握できることにした。以来、私や家族が出張や旅行以外13年半の間、毎日電話を受けている。

 西五百住町に住んで4年半がたち、資金の底が見えてきたので売りに出すことにした。購入した金額1250万円より少し低めの価格、1200万円で売り出す。少し苦戦を予想したが2ヶ月ほどで売買することができた。売り出すと同時に引越先を探す。前回同様、賃貸借でなく、購入を希望する。Nさんはまたしても幸運に恵まれて適当な物件を見つけることが出来た。購入価格900万円、摂津富田駅徒歩11分、3戸一の連投式住宅2階建て、間取りは3DK。今度の地名は東五百住町(ひがしよすみちょう)と呼ばれ、西から東に移ったことになる。平成4年の暮れの頃だった。

 例によって引越の作業は私が請け負うことになる。レンタカーの手配をして奥さん、アルバイター3人を頼み計5人で仕事をすることになった。

 古い家具類を運送するのは2度目になるので要領よくなっている。前の住宅よりやや小さくなってはいるが搬入や使い勝手に特別影響はなさそうだ。一人身のことで、生活できる状態までセットしておく必要があった。

 よい付き合いができるように隣近所の人達に挨拶してまわった。不安はなく健康状態も良くて気分も爽快。前の住宅での生活と比較しても上々のスタートがきれた。 週一回の病院診察でも異常なしが何年も続いて薬の量が少なくなってきたが、病院に通うことに大きな意味があるので欠席することは出来ない。

 Nさんの日課は6時の起床から始まる。自分で食事の用意をして朝食を取る。ほとんどはパン食と牛乳。タバコを2本すってゆっくりくつろぎ8時半ごろ家を出る。阪急富田駅の側にある喫茶店に入るが、その前に、私に電話をかけて無事の確認をする。喫茶店は時々変更してほかの店にいく場合があるが、9時前後に電話することを忘れることはない。2時間ほど大好きなコーヒーを飲みながら新聞を見る。特にスポーツ紙のモーターボート記事を見て順位の予測をたてて楽しんでいる。11時ごろ買出しに喫茶店を出ていつもの市場で昼食と晩食の材料を仕入れる。昼食は喫茶店で食べたり自宅に戻って食べたりしている。昼食がすめばテレビを見ながらゆっくりと過ごす。数本のタバコを楽しみながら。

 Nさんには趣味がある。写真と絵画。精神が病んで久しいがこの趣味だけは止めることがなく、生きがいの多くを占めている。昼食後の休憩の後か5時ごろに食べる晩食の後に絵を書いて楽しんでいる。おもに抽象的な水彩画。若かりし頃、高槻市主催の展示会に出展して賞をもらったこともあり、絵で自分を表現しているように感じるときがある。 写真も好きで京都へ行けば舞妓さんを撮って、額縁に収めたものをもらったことがあり、鮮やかな色が映しだされている。あるできごとにたいして、多くの人が経験する感じ方と違った感じ方をNさんは経験しているかもしれない。

 昔、山下清という画家がいて、一年間の風来旅から戻り、絵を描くときは旅先で見た風景を鮮やかな色柄で表現した、と聞く。Nさんに過去のあることについてたずねると、何年の何月何日はこうであった、と記憶しているときがあり、ほかの人達と違う才能を豊富にもっているように感じる。

 Nさんにしてみれば、憎しみやいさかいの多い世間の人達が精神異常にうつっているかもしれない。不平、不満をいうことを15年のあいだ、聞いたことがなく、憎しみや怒る様子を見たり感じたりすることは一度もなかった。

 東五百住町に移り住んで3年の歳月が過ぎる。平穏、無事に生活してきたが現金を使い果たしていくらかの借金をして生計を立てていたが、このままでは平穏に過ごすことができなくなると考えた末に、自宅を売って換金し、借金返済と生活費を確保することにした。

 平成7年の夏。土地の相場は下がり、売ることが困難な情勢になってきた。しかも、売った後をどうするかが重要な問題になる。売れたとして移転先を購入するか、借家にするか。しかし、住み慣れたところであり、また歳が増し、疲れも多くなってくるので移転するにもたいそうであった。販売を模索してから半年後に金主が見つかる。融資者と言うより援助をしてくれる人にめぐり合うことができた。

 住宅を担保に融資する場合はその住宅に抵当権を設定して融資実行するのが一般的な融資方法であるが、一旦、物件の名義を融資者に移し、融資を実行した後に返済が不能になれば返済のかわりに不動産で補ってもらう便利な融資方法があり、Nさんの場合の方法はやや変則ではあったが相場の80%ぐらいの価格で売却することにして20%に相当する金額を金利とみなすことで取引が成立することになった。当時の相場は750万円としてその80%、600万円での売買になる。 この取引が成立して3年間、生活費が滞ることなく充当されて無事に過ごすことができた。

 もっとも、自宅は他人様のものになっていて、そのお陰で3年間生活できたことになる。Nさんもことのほか感謝していた。

 平成10年に入り、生活するための金銭も少なくなってきたころ、高槻市の福祉事務所を訪問する。過去のいきさつや現在の状況を説明して生活保護が受けられるよう申請する。しばらく調査した結果、受給者の認定を受けることになった。決して多くはない金額だが合理的に使えば生活はできる。

 生活保護の中身は「生活扶助」「住宅扶助」「医療扶助」の3件で借家住宅のための家賃の扶助も含まれている。前に名義変更して所有者が変わり、これで大家さんと賃借り人となってあらためて借家契約を取り決めることになった。賃借料として、住宅扶助で支給される金額をそのまま大家さんに支払うことでそのまま住み続けることができるようになった。私が仲介人となり、賃貸借契約書を作成してNさんと大家さん、それぞれからサインをしてもらった。

 生活保護を受けるまでのNさんの生活ぶりは決した贅沢していたとはいえないが節制いていたともいえなかった。生活扶助で支給される金額の2倍を超えて消費していた。なんとか節約して、支給される金額によって生活が成り立つように努力をしたが、支給が始まった平成10年11月から2年間ほどはNさんも私もしんどい思いをしていた。なにしろ、衣食住の必要経費以外に趣味の絵画や写真の材料代が必要なことと、コーヒーと喫煙が好きな人で特にタバコは外国産の高価なものを愛煙していた。

 節約しながらの生活をするなかでも生活サイクルはうまくまわっているように思えた。笑顔になることは、ときどき見えるが、怒り、悲しみの表情は以前と変わることがなく見ることがなかったから。

 平成15年、夏の終わり頃に現在までの大家さんから、家を売りたい、と話があった。

 販売にかけて買い手が見つかれば、Nさんは家を明け渡すことになる。貸借の契約当初からの約束なので明け渡すことを前提に話し合うことになった。大家さんとは、販売価格をいくらにするか、家の明け渡しを買い手が見つかってからにするか、または、先に空き家にしてから販売するか、などを話し合う。Nさんには住宅扶助の範囲内の家賃なので、若干の狭さは我慢すべきとすすめ、適当な物件を見て歩く。市役所にある福祉事務所の担当者とは、大家さんの事情とNさんの心情をつたえ、適当な物件が見つかれば、敷金や保証金を支給してもらえるよう依頼し、物件の探索と契約締結の手順は当方に任してもらえるように、と話し合う。

 平成元年のころと現在では世情が、かなり違っている。特に不動産価格の下落は止まることがなく続いている。当たることのない予測がまん延して、専門家と言われる人達が解説しているばかりで、賢そうな言葉と崇高な理論がメディアから流されている。しかし、自分は目の前の人達の具体的で利害のあることがらを調整、整理する立場であり、抗論して自分を慰めても仕方のないこと。

 Nさんについての今回の仕事はかなりの難物、と覚悟を決めてとりかかった。何故かといえば、関係者にとって、マイナスの将来を強いることになるかもわからない、と思えたから。大家さんにとれば、せっかく、購入してもらって自分たちに協力させていながら、売却した時点には相当の損をさせる可能性があること。Nさんには間違いなく今よりも狭い部屋に引っ越すことになり、形見が多く詰まった箪笥類を廃棄することが確実なこと。市役所(府を代行)の福祉事務所も財政の赤字などであまり多くの金額は期待できないこと、などなど。

 平成15年11月の中ごろのこと。高槻市内の不動産仲介業者の営業マンが高齢の下見希望者を案内してくれた。しばらくして、当社を担当者が責任者を同伴して訪れた。すると、当方が提案した条件をほとんど認めた上で契約してもよいと、申し込んできた。このお客さんが購入してくれれば、万事がうまくいく。

 大家さんにとっては、賃貸収入と雑費をトータルで計算すると、プラスになる販売価格となった。また、Nさんがこの家から退去しなくてもよいことになった。今までどうりで、Nさんが生活したまま、オーナーが変わるという方法で売買契約をすることになった。改装して引き渡すこともない。福祉事務所も金銭の拠出がないので喜ぶ。

 購入者はどうか、あまりに低い銀行金利で現金の行き場所を探していた矢先のこと、この物件を収益物件として検討し、納得して購入することになった。0.01%の預金金利の時勢に、購入のための投資金額と家賃収入を比較検討すると、固定資産税・都市計画税と維持管理費を差し引いても年利で6%以上の利益になる計算ができた。Nさんの場合は不服や要求はほとんどない人なので、維持管理費はかからないといってもよく、確実に採算の取れる投資をすることになる。

 関係当事者の全員が納得して契約し、安全な取引をすることができた。けっして大そうな仕事ではないが、千歳一隅の出会いと言ってもいいぐらいの出来事であった。

 欲望や希望の少ないNさんは今後も淡々としかも礼節をもって生きていくと思う。15年前の最初の家を買い取ったときの交渉以来の付き合いになるが、思えば、かなりの仕事をさせてもらった。古家を買い取り、新築を販売したおりの利益配分、西五百住町を購入したときの仲介手数料、売ったときの仲介手数料、東五百住町を購入したときの仲介手数料、代物弁済で所有者が変わったときのコンサルタントフィー、収益物件として販売したときの仲介手数料など手数料関係で6件あった。それに内装工事、ベランダの防水工事、便所の水洗工事など相当の工事を請負うこともできて、売り上げと利益を上げることができた。また、少ない利益だったが2回の引越も仕事になった。

 私にとってNさんは大切なお客さんであり、人生の先輩であります。

 15年の歳月を経験して感じるのはNさんにとっての人生とは、まさに、生きることであり穏やかに生活することになる。心身が平穏になるための最低の働きのみで、欲望やいわゆる煩悩と言われているものを感じることがない。

 Nさんは好きな絵のなかでお地蔵さんを良く描くことがあるが、あるとき、Nさん自身が仏さんに見えるときがある。争いや憎しみのない安らぎの多い世間になることを期待しながらこの回想を終える。